「湯治」を現代のライフスタイルにあわせてアップデートする「薬泊堂」
──薬泊堂には,どのような経緯で関わることになったのですか。
旅館の中に薬局ができる,それも日本で初めてだと聞いて,どんな場所になるのだろうと興味が湧き,応募しました。私自身も温泉が好きなので,毎日温泉に入りながら薬剤師として働けるというのは,恵まれた環境だと思います。
──薬泊堂とは,どんな場所なのでしょうか。訪れると,どんな体験ができますか。
ひとことでいえば,ご自分の身体の現在地を知っていただく場所です。薬泊という滞在では,56項目の問診と対話から漢方の視点で体質を分析し,その方にあわせた薬膳の食事や入浴の仕方,香りやお茶までを組み立てます。夜は指輪型の機器で睡眠を記録し,翌朝一緒に振り返るところまでが一泊の流れです。
血流や肌,頭髪の分析も行っていて,毛細血管には普段の食事や運動が表れます。滞在のなかでご自分の状態に気づいて,日常に戻ってからの過ごし方を見直していただく。そこまでが,ここでの体験になります。
旅館内にある薬局
──どんな方が利用されているのですか。
女性が多く,年代も30〜60代と幅広いです。ご相談の内容で目立つのは睡眠に関することで,その他にも婦人科系や更年期のお悩みをうかがうこともあります。
薬泊堂に来られる方は,すでに漢方を取り入れている場合も多いので,どちらかといえば,日々の過ごし方を一緒に考えることが中心になります。
──薬泊堂では,薬剤師を「薬師(くすし)」と呼んでいますね。この呼び方には,どんな意味を込めているのですか。
薬師というのは,古くから人々の健康を支えてきた呼び名です。もともと湯治と薬師は一体のものでしたから,温泉地でその役割を担うという意味を込めています。
薬剤師と書くと,どうしても医療の側に寄ってみえてしまいます。薬をお渡しするだけでなく,食事や入浴,睡眠まで含めて健康を支えたい──そういう思いから,この呼び方を使っています。
──調剤薬局やドラッグストアでの薬剤師の仕事と,薬泊堂での仕事は,何がいちばん違いますか。
いちばん違うのは,相手が患者様ではなく,お客様だということです。病気を治すためにいらっしゃるわけではないので,未病やウェルネスという視点から,体質や食事,睡眠,入浴の仕方についてお話ししていきます。
もっと健康になりたい,日頃の悩みを解決したい──そういう方のための薬局ですから,薬局としての重心が,調剤薬局やドラッグストアとは違うところにあるのだと思います。
体質を読み,滞在を組み立てる
──薬泊堂では,カウンセリングから滞在が始まると伺いました。どんなことを伺い,何を大切に見ているのですか。
薬泊プランの方には,ご来館前にオンラインで問診にお答えいただき,当日はその内容をもとにお話を伺うところから始まります。何が気になっているのか,その裏にどんなお悩みがあるのかを,じっくり聞かせていただく時間です。
問診の回答からは,気虚や水滞,瘀血といった八つの体質が14点満点でスコア化され,高いものほどその傾向が強いと読めます。ただ,スコアが一つに偏る方もいれば,複数で高く出る方もいて,いくつかが絡み合っていることも少なくありません。数字をお伝えして終わりにはせず,お困りごとを起点に,対話のなかで糸口を一緒に探していくようにしています。
──漢方や生薬の知識は,実際にどんな場面で使っているのですか。
体質を読み,その方に何があうかを考えるところですね。気虚の方ならエネルギーを補うもの,冷えがあれば身体を温めるもの,というふうに選んでいきます。あとはそれを,お食事なら料理人に,香りなら創香室の聞き師にお渡しして,形にしてもらう流れです。漢方薬をご希望の方には,直接ご提案することもあります。
──お風呂の入り方まで提案されるそうですね。どのように決めているのですか。
決め手になるのは,やはり体質です。例えば,水滞でむくみやすい方でしたら,しっかり汗をかいていただきたいので,お湯の温度と浸かる時間の目安までお伝えします。気虚の方はその逆で,汗と一緒にエネルギーも出ていってしまうので,ぬるめの半身浴を,のぼせない手前で切り上げてくださいと申し上げます。いずれも,ご自宅に帰ってからも実践できる内容を提案するよう意識しています。
──入浴の仕方について,そうした知識はどこで学ばれたのですか。
実は温泉ソムリエの資格をもっているのですが,その勉強で使ったテキストに入浴法が詳しく載っていて,いまでも参考にしているんです。それに加えて,入浴法に関する論文にも目を通して,入浴と身体の反応について知見を新しくしています。そういった知識を組み合わせながら,この方にはこの入浴法があいそうだと考えてご提案します。
──料理人や聞き師の方々とは,どのように連携しているのですか。
まず私が薬剤師として事前の問診票をもとに,この方に何があうのかを考えます。例えば気虚の傾向が強い方でしたら,エネルギーを補えるものが挙げられます。具体的には,地元の佐賀牛やお米,しいたけなどです。いまの季節でしたら,身体を温めながら気を補う桃もあいます。ただ,そこで夕食のメニューを固めきってしまうことはしません。当日お話を伺うと,「こういう食材を足したほうがよいかも」という場合もあるので,料理人と相談しながら夕食までにメニューを整えていきます。
香りも同じで,その方の体質からどんな原料が合うかを考えます。そこから体質とお悩みを聞き師にお伝えして,あう和漢素材や原料を用意していくというかたちです。
未病に向き合う
──薬泊堂は健康相談を軸にした薬局です。相談を中心に据えているのには,どんな考えがあるのでしょうか。
病気を治すためにいらっしゃる方は,ほとんどいません。ですから,治療というより,いまどんな状態にあるのかを知っていただくことを軸にしています。診断がつくほどではなくても,例えば睡眠中の呼吸のように,気になる兆しが見つかることはあります。そこに気づいて帰っていただければ,日常の過ごし方も少し変わるかもしれません。それが相談の役割だと思っています。
一方で,これは受診されたほうがいい,という方にお会いすることも実は少なくありません。遠方からお越しの方がほとんどですから,その場合はかかりつけ医にご相談ください,とはっきりお伝えしています。
──開局から数カ月が経ちました。印象に残っていることはありますか。
睡眠力分析で,眠っている間に酸素飽和度(SpO2)が大きく下がり,呼吸の止まった回数も基準を大きく超えていた方がいらっしゃいました。これは一度きちんと受診されたほうがいいとお伝えして,結果の数値もそのままお持ちいただけますとご案内しました。ご本人もうすうす気がついていたようで「やはりそうか」とおっしゃっていましたね。
旅先での一晩が受診のきっかけになる。旅館に薬剤師がいる意味を,改めて感じた出来事でした。
──利用者に何かを提案するとき,伝え方で大切にしていることはありますか。
漢方薬は時間をかけて体質を改善していくものなので,今日飲めばすぐに良くなる,と過度な期待を抱かせてしまう言い方はしないようにしています。また,体質判定の結果にはお勧めの漢方薬が記載されているのですが,ご本人が興味を示されていない場合や,お話ししている様子から「この漢方薬はあわないかも」と感じた場合は,無理に話題として持ち出すことはしません。
一方で,漢方薬について詳しく知りたいという方には,さまざまお話をさせていただくこともあります。
薬剤師が温泉旅館にいる意味
──先ほど,旅館に薬剤師がいる意味を感じた,とおっしゃいました。改めて,その意義をどうお考えですか。
お客様の体質にあわせて,料理人や茶師,聞き師が,それぞれのかたちで未病に向き合っています。その真ん中で「体質」という一本の軸を通し,皆さんの専門性を活かすのが,私の役割だと思っています。
薬師と呼んでいただいていますが,いま私がしているのは,その文化を受け継ぎながら,いまの暮らしにあう形へ進化させていくことなのだと思います。
──温泉についても,薬剤師の視点が活きる場面はありますか。
温泉には必ず分析書があって,どんな成分がどれだけ含まれているかが記されています。そこを読み解くのは,薬剤師にとってはなじみのある作業です。実際,温泉分析書を作成する登録分析機関には,薬剤師会が担っている地域もあります。お客様から,この湯はどういうお湯なのかと聞かれたときに,成分から順を追ってご説明できるのは,薬剤師でよかったと思うところです。
和多屋別荘内の温泉施設
〔和多屋別荘Webサイトより〕
──薬泊堂での経験を通して,薬剤師という仕事について,改めて感じ直したことはありますか。またそれは,普通の薬局で働く薬剤師の仕事にも通じるものがあるのでしょうか。
薬剤師の本来の価値は,薬をお渡しすることの先にある,お客様の健やかな暮らしを支えるところにあるのだと,改めて実感しました。旅館ではホテルマンの一員として,お客様の様子から言葉を選ぶ細やかさを教わりましたが,専門性を活かして人に向き合うという点は,調剤薬局にいた頃と変わりません。対物業務から対人業務へという流れは,薬泊堂でも街の薬局でも共通する,大切な使命だと思っています。
日本初,旅館の中に薬局がある世界
なぜ旅館に薬局があるのか
薬泊堂は大浴場のすぐ手前にあり,扉もなく,川に面した明るい一続きの空間がそのまま薬局になっている。日本で初めて温泉旅館の中に生まれた薬局だが,館内の雰囲気に違和感なく収まっていて,言われなければ気づかないかもしれない。それでも,台の上に並ぶ甘草,桂皮,大棗,柴胡といった生薬には,興味をもって足を止めていく宿泊客が多いという。
なぜ旅館の中に薬局なのか。和多屋別荘で企業誘致とR&Dを担う大石和哉ゼネラルマネージャーは,「約2万坪ありますから,泊まるだけで使うのはもったいない」と話す。コロナ禍で客層が団体から個人へ移ったこともあり,和多屋別荘は2021年に「通う旅館」を掲げ,泊まるだけでなく繰り返し足を運んでもらう形を目指してきた。
館内には企業を招き入れる温泉インキュベーションセンター(OIC)があり,いまはサテライトオフィスを含め複数の企業が拠点を置いている。大石さんは,この敷地を共創の場とし,地域のために新しいものを生み出していきたいと話す。薬泊堂もそこから生まれたもので,薬局を迎えたのは「薬剤師の本来の価値を可視化していく。それを一緒に進めていきましょう」という考えからだったという。
薬泊堂を拠点とする滞在プログラムは「薬泊」とよばれ,そこで掲げられているのが養生である。江戸時代の儒学者・貝原益軒が『養生訓』で説いた古い考え方だが,薬泊はこれを,「自分の心と身体に自ら働きかけ,本来備わっている生命力,すなわち自然治癒力を高めていくこと」と捉えている。
薬学部で見慣れた生薬が並ぶ
湯の成分を読み解く
温泉についても,金髙さんの説明は成分から始まった。嬉野は島根の斐乃上,栃木の喜連川と並ぶ日本三大美肌の湯で,泉質はナトリウム-炭酸水素塩・塩化物泉,いわゆる重曹泉である。pHは7.5から8.5の弱アルカリ性で,この湯がまず不要な角質をやわらげ,重曹の成分がこれに重なって皮脂を乳化させる。湯から上がると,塩化物泉の塩の成分が肌の表面に残り,保温と保湿に働く。天然の保湿成分も多く含まれるという。
体質チェックを受けてみる
薬泊の入口にあたるのが,漢方の体質チェックである。今回,筆者もこの設問に回答した。結果は気虚が7点で最も高く,次いで気逆が5点,血虚が2点,陽虚は0点だった。チャートは気虚と気逆の二方向に伸びており,金髙さんも「かなり偏っていますね」と話した。
気虚は,身体を動かすエネルギーである気が不足した状態で,慢性的な疲労や倦怠感を感じやすく,胃腸虚弱の傾向があるとされる。体質判定分析レポートには,十分な睡眠をとること,息が上がらない程度に1日15分ほど歩くこと,牛肉や米,しいたけ,生姜,桃といった食材,人参や陳皮,大棗などの薬膳素材が挙げられ,漢方薬として補中益気湯,六君子湯,人参湯の名が並んでいた。
和多屋別荘の外観
毛細血管を観察する
薬泊堂には,身体の状態を観察する機器が置かれている。血流分析で見るのは指先の毛細血管である。食事や生活習慣の影響を受けやすい部位で,不摂生が続くと,本来まっすぐな毛細血管が曲がりくねって見える。血の流れそのものも目視できるため,運動が足りているか,食生活が乱れていないか,疲れが出ていないかも読み取れるという。生活を改めれば3カ月ほどで毛細血管に変化が現れるので,次に泊まったときにもう一度受けて,自分の身体の変化を感じてほしいと,金髙さんは話した。
その他にも,肌は表皮のきめや弾力に加えて真皮層の毛細血管まで,頭髪は毛穴の詰まりや毛根の状態,毛髪の太さや密度に加えて頭皮の毛細血管まで観察できるという。
血液分析
〔薬泊堂Webサイトより〕
「薬泊」1泊2日の流れ
薬泊は1泊2日で組まれている。到着すると薬泊堂で出迎えられ,薬膳茶とともに体質チェックが始まる。出てきた体質をもとに入浴の仕方が案内され,その体質にあう香りをつくる創香の時間へと続く。ゆっくり湯に入ったあとは,感じたことを振り返る時間がある。
夜は薬膳の夕食をとり,ティーサロンで薬膳茶を味わってから,睡眠を記録するリングを装着して休む。翌朝も入浴し,薬膳の朝食をとってから,最後にもう一度薬師と話し,滞在で気づいたことを日常にどう持ち帰るかを確かめる。どこにどれだけ時間をかけるかは,その日の体調や希望にあわせて調整してもらえるという。
河畔サウナ
〔和多屋別荘Webサイトより〕
旅館はどう変わったか
和多屋別荘は2023年から「嬉野Well-being」を掲げ,1300年の嬉野温泉,500年のうれしの茶,400年の肥前吉田焼,200年の酒蔵という土地の文化に触れてもらうことで,滞在そのものを「整える」時間にしようとしてきた。第一弾は嬉野川のほとりに設けた河畔サウナで,薬泊堂もその流れのなかにある。
薬剤師が常駐するようになって,「お客様の意識も,スタッフのご案内の仕方も,ウェルネスに向かって変わってきている」と大石さんは話す。幅広く始めた取り組みが,いまは薬泊堂を軸に,温泉を中心とした形へ絞り込まれてきた。
もっとも,ウェルビーイングという言葉そのものは「難しいですね」と大石さんも認めており,「家族やご友人と来られて温泉を楽しんでいらっしゃるなら,それはもうウェルビーイングだと思います」と続けた。まずそこを土台に置き,そのうえに薬泊堂を重ねる,という順序で考えている。
構想は代表取締役の小原嘉元氏が立てており,温泉を起点にしたウェルネスやロンジェビティの中心に薬泊堂を置くという。大石さんは,「私たちとしては,温泉旅館に薬剤師がいるのは当たり前になっている。これが全国に広がって,薬剤師の価値の可視化につながっていけば嬉しい」と語った。
✓施設情報
和多屋別荘
所在地:〒843-0301 佐賀県嬉野市嬉野町下宿乙738
アクセス:西九州新幹線「嬉野温泉駅」より車で約5分(送迎あり・要予約)
電話:0954-42-0210
運営:株式会社和多屋別荘
URL:https://wataya.co.jp/
薬泊堂
所在地:〒843-0301 佐賀県嬉野市嬉野町下宿乙738(和多屋別荘内)
開局時間:9:00〜12:00,14:00〜20:00(火曜・水曜定休)
運営:アイリー製薬株式会社
URL:https://yakuhaku.com/
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