なぜ製薬企業がミュージアムを運営するのか
──くすりミュージアムの開設の経緯を教えてください。企業ミュージアムでありながら,自社の色をかなり抑えている印象も受けましたが,そこに込められた考えも含めてお聞かせください。
2012年の開館にあたり3つのテーマを軸にしました。1つ目は,薬の街・日本橋という立地を活かした地域の文化交流拠点としての役割。2つ目は,創薬に関する企業活動を紹介しつつ,当社だけでなく製薬業界全体への理解と信頼を醸成すること。3つ目は,薬に関する教育への社会的要望に応えることです。開館当時は全国の中学校で薬育が始まった時期でもあり,製薬企業に対する情報開示への期待が高まっていました。
薬や薬学関係の施設は資料や展示品をベースにしたものが多いのですが,開館の準備段階で他社の博物館も複数見学したうえで,より多くの方に届けるには体験型が良いのではないかという結論に至りました。文字による解説ではなく,CG・映像・ゲームを中心にした22の体験コーナーで構成しています。都内で製薬企業が手がける体験型の施設としては当館が初めてでした。
企業色を前面に出さず,あくまで「くすりそのもの」を伝える施設にするという方針も,このときから一貫しています。
──展示のなかにmRNAワクチンを紹介する映像がありました。拝見して,開発された当事者としての苦労やメッセージを感じたのですが,展示に込めた想いを教えてください。
ワクチンの映像展示は,ワクチンについて正しく理解してもらうために制作しました。なかでもmRNAワクチンは,約1年という短い期間で開発から実用化に至ったもので,多くの方にとって馴染みの薄い存在だったと思います。知らないもの,わからないものだからこそ生まれる不安や疑問に対して,正しい情報を届けたいというのが制作の出発点です。
ワクチン担当の部署やグループ会社の協力を得て制作し,完成後に社内で試写会を行いました。協力いただいた方々が感慨深そうに映像を見つめていた姿が印象に残っています。
11,000人が訪れる体験型施設
──入場無料で運営を続けられていますが,来館者はどのくらいなのでしょうか。また,この施設の「成果」をどのように捉えていますか。
2025年度は約11,000人です。若い方からお子さん連れのご家族,高齢の方まで幅広い方にご来館いただいています。また,全国の小・中学校の児童や生徒さんなども修学旅行や校外学習などの際に来館していただくことも増えていて,学校によっては毎年ご来館されるところもあります。
たくさんの方にご来館いただいておりますが,当館の目的は,薬を身近に感じていただき,そのなかにある楽しさや面白さに気がついていただくことです。したがって,見学を通じて「薬って面白い」と楽しみながら学んでもらうことが当館の成果だと考えています。
クイズコーナーの製剤模型
──展示の内容が一般向けにしてはかなり本格的だと感じました。薬学的な知識を端折らずに伝えようとする姿勢が印象的です。情報量や難易度は,どのような基準で設計されていますか。
「薬の専門的な知識を,一般の方にもわかりやすく伝えること」がコンセプトです。なので,難しい薬学ワードを可能な限り噛み砕いて言い換え,丁寧に説明することを意識しています。一方で,内容をデフォルメするような簡略化はしていないので,一般の方にとっては処理しきれないほどの情報量になってしまっている面もあります。ただ,来館者の多くから「難しい内容だけどわかりやすく,楽しく学ぶことができた」「また来て,もっと学びたい」という声をいただいており,いまのかたちを受け入れていただいていると感じています。
例えば,薬が体内でどのように動くかを伝える「くすりのうごき」という展示では,巨大な透明人体模型に映像を投影して,剤形ごとに薬物がどのような旅をするのかを視覚的に追えるようにしていますが,「肝初回通過効果」のような専門用語は使わずに「経口薬はまずは肝臓で代謝される」ことを学べるようにしています。「ここまでは踏み込むが,ここから先は触れない」という明確な線引きがあるわけではなく,薬についてどうしたら理解してもらえるかを考えてきた積み上げの結果です。
展示「くすりのうごき」の巨大な透明人体模型
「薬剤師になってみたくなった」と話す子どもたち
──今回,小学1年生の子どもと一緒に施設を体験したのですが,帰り道に「薬剤師になってみたくなった」と話していました。来館者からそうした反応をもらうことはありますか。
ありがたいですね。アンケートでは,「薬の開発に関する映像を見て,息子が"かっこいい"と感動していた」というものや,「子どもが将来薬を作る仕事に就きたいと望んでいるので,ヒントになればと思い来館した」という方もいらっしゃいました。「滞在時間が90分では時間を持て余すだろうと思っていたが,時間が足りず,近日中にまた来たいと子どもからリクエストがあった」という声もあります。お子さんだけでなく大人の方からも「知らないことを知ることができて面白かった」という感想は多いです。
この施設を見て,製薬業界や薬剤師さんの仕事に興味をもってもらい,将来の選択肢の一つになれば嬉しいですし,一般の方に真剣に見ていただけるのが何よりありがたいと思っています。
──本社の移転に伴い,くすりミュージアムも移転を予定していると伺っています。新しいミュージアムで「これだけは大切にしたい」と考えていることはありますか。
現在のミュージアム運営における成功体験は,体験型施設として薬を身近に感じ,楽しんで学んでもらうという方針が,開館時から変わらず続けられていることだと思います。新しいミュージアムでも,体験型施設というコンセプトを変えずに続けていきたいです。
一方で,開館時にハード面を作り込んでしまい,展示の更新や拡張性という部分に課題を抱えてしまいました。開館時では難しかったことも,デジタル技術の進化に伴い,現在は可能になっていることもあり,そういった展示の更新や拡張ができないことに歯がゆさを感じています。ですので,新しいミュージアムは柔軟に展示を更新できる施設にしたいと考えています。
薬を「自分ごと」にしてもらう
──薬の専門家ではない方に「くすり」の面白さや大切さを伝えるうえで,心がけていることは何ですか。
最近はコンビニやインターネットでも医薬品が買えるようになり,薬は生活にとても身近な存在です。それにもかかわらず,「どうして水で飲まないといけないのか」という素朴な疑問すら考えたことのない方も少なくありません。身近な存在でありながら,薬に興味をもったり,自分ごとにできている方はまだまだ少ないのが実情ではないでしょうか。
そこで薬について「学んでみたい」「面白い」と興味をもってもらう入り口として,当館が機能することを意識しています。薬がどのように作られ,どれだけ多くの人の想いが込められているのか。そのストーリーに触れるだけでも,見え方は少し変わってくるかもしれません。
そしてもう一つ,薬を自分ごとにしてもらうことも大切だと思っています。自分が病気になったときだけでなく,周りの人が苦しんでいるときに,薬がどんな役割を果たすのか。その視点で考えてもらえたら,薬はぐっと近い存在になるはずです。
──「自分ごとにしてもらう」というのは,薬剤師が服薬指導で患者さんに薬を伝えるときにも通じる課題だと思います。ミュージアムの立場から見て,薬剤師との共通点や違いをどのようにお考えですか。
当館は,薬の種を見つけてから患者さんに届くまでというサプライチェーンのなかで,入り口の部分を担っています。薬の旅の全体像を伝えることで,薬に対する理解を深めてもらう。薬剤師さんはその出口に立ち,どう服用してどう効くかを患者さんに届ける立場にいらっしゃる。立場は違いますが,「くすりを伝える」という点では同じ方向を向いているのではないかと思います。
Daiichi Sankyo くすりミュージアムに行ってみた
江戸時代から薬種問屋が軒を連ね,いまも製薬企業が集まる東京都中央区日本橋本町は「くすりの街」である。その一角,第一三共本社ビルの1階・2階に「Daiichi Sankyo くすりミュージアム」はある。入場無料・完全予約制の体験型施設で,コンセプトは「くすりと,もっと仲良くなれる」。今回は小学1年生の娘を連れて取材に訪れた。
1階:「くすりの世界」への入り口
ミュージアムに入ると,中央にカプセルが浮かぶ円形のテーブルが目に入る。このテーブルが「くすりの世界」への入り口だ。テーブルに映し出されるムービーは,「薬ができるまでの道のり」を解説し,「くすり」というものが選び抜かれてできたものであることを教えてくれる。薬剤師には馴染み深い話だが,それを知らない娘は映像に見入っていた。
2階:メダルを手に,くすりの世界を体験する
2階に上がると,展示を操作するためのメダルが渡される。各展示の所定の箇所にメダルをはめると体験が始まる仕組みで,小学1年生でも迷わず扱えるわかりやすさだった。ただ眺めるだけでなく,自分のメダルで展示を動かすという体験が,子どもの集中力を引き出していた。
展示のテーマは幅広い。生体の免疫機能から受容体,薬物動態,製剤,そして製薬開発や治験のプロセスまでをカバーしている。一般向けの施設ということで,内容は表面的に簡略化されているのではと想像していたが,まったくそんなことはなかった。薬学的な知識を端折ることなく,それでいて誰にでも届く言葉に噛み砕いて伝えようとする姿勢が随所に感じられる。
例えば,薬の種類を学ぶクイズコーナー。錠剤やカプセル剤,貼付剤,点眼剤などをかたどった大きな模型がずらりと並び,思わず手を伸ばしたくなる。その中から,解答にあうものを選び取る仕組みなのだが,解説に目を移せば剤形ごとに,坐剤がなぜ直腸から吸収される形で作られているのか,点眼剤がなぜ涙液に近い成分で調製されているのかといった背景にまで踏み込んでおり,見た目のキャッチーさと内容の本格さのギャップに引き込まれる。
また,同行した娘が「もう一回やりたい」と言ったのは,製剤の崩壊を体験する展示だ。素錠と腸溶性製剤では胃や腸での崩壊パターンが異なることを,自分で操作しながら確かめられる。小学1年生に製剤学の理屈はわからなくても,「形が違うと溶け方が違う」という発見そのものが面白かったのだろう。
なお,施設のなかで「第一三共」の社名やロゴを目にした記憶がない。あくまで「くすりそのもの」を伝え,薬とは何なのかという問いを来場者に投げかける施設だと感じた。
小学校低学年には少し難しい,けれど──
今回,小学1年生の娘にミュージアムを体験してもらったが,展示の動画や解説文にルビがないので,本人だけで理解するのは難しい様子だった。それでも,自分の身体が数十兆個の細胞でできているという話や,薬がどのように吸収されるかという話を,真剣な表情で聞いていた。感想を聞くと「難しかった」と口にしていたが,「もうちょっと大きくなったら,また行ってみたい」「楽しかった」とも話していた。
実は,筆者も妻も薬剤師免許を有しており,比較的,薬剤師が身近な家庭だ。しかし,子どもに対して薬について話をしたり,興味をもつようにと働きかけたことはなかった。ところが帰り道で,娘が「薬剤師になってみたくなった」と口にしたのだ。すべての情報を受け取れなかったにしても,薬学の面白さに気づく何かはあったのだろう。
読者の皆さんのなかにも,お子さんやお孫さんに薬の仕事をどう伝えるか,考えたことのある方がいるかもしれない。このミュージアムは,そのきっかけになり得る場所だ。
Daiichi Sankyo くすりミュージアム
所在地:東京都中央区日本橋本町3-5-1(※移転予定)
アクセス:地下鉄銀座線・半蔵門線「三越前駅」A10出口 徒歩2分/JR総武快速線「新日本橋駅」出口5 徒歩1分
開館時間:①10:00-11:30 ②12:00-13:30 ③14:00-15:30 ④16:00-17:30(90分の完全入替制)
入場料:無料(完全予約制・公式サイトより予約)
URL:https://kusuri-museum.com/
Daiichi Sankyo くすりミュージアムが伝える「くすりそのもの」